新宮市ロータリークラブ、ゲスト卓話に筒井 三輝朗氏
「西村記念館を守り伝える会」について 08.12.10

ロータリークラブで卓話の筒井氏
 1915年、西村伊作邸が現在の地に建てられました。洋風のこの建物は当時の文化人たちの交流の場となり、石井柏亭(画家)、与謝野鉄幹・晶子夫妻、富本憲吉(陶芸家)、そして佐藤春夫らが集い一大サロンとなりました。
 しかし現在雨もりや白アリによる被害など、早い時期に手を入れる必要がでてきました。
 そこで「私達でできることからはじめよう」と保存のための活動をすることになりました。市民レベルの活動ですが、皆様からお寄せいただいた浄財は、一括して市に委託し保存等に使っていただくようにしております。
 市は重要文化財の指定をとるべく西村家のご協力のもと書類を整えているところです。市の意向と私達の活動が両輪となって「西村記念館を守り伝える」ことができればと考えております。
 西村伊作は1884年(明16)、大石余平の長男として新宮に生まれました。その人生は波瀾万丈の人生でした。7才の時に濃美地震により両親を1度に失い祖母のもとに引きとられますが、叔父の大石誠之助がアメリカから帰国すると新宮で叔父と暮すことになり、中学生になる時には広島の牧師に嫁いでいた叔母睦世のもとで卒業まで一緒に暮すことになります。
 23才の時に津越光恵と結婚し9人の子どもに恵まれました。「子供と遊ぶことが大事なこと」と考えていた伊作は、教育に関する本を多数読み教育の理想をもっていました。
 ・私は自分の子供と遊ぶことによって自分が幸福であり、そのことが一つの自分の事業のように思っていた。
 ・子どもと遊んでいる間に私は子どもを教育することが出来るのだと思う。
 沖野岩三郎牧師と幼稚園をはじめたり、長女アヤのために学校まで創ることになり(大10)、これが伊作のライフワークとなっていきます。
 ・女学校の教育は日本中のどの学校とも同じように堅苦しくて、昔風の教育であった。
 ・子供を教育するのには精神的、それから実際的に親が一種の哲学者でなければいけない。
 ・美のための教育をしたならば、人間の価値がずっと高くなるものだと考えた。
ところが、時代は太平洋戦争に入り教育にもその影が落されてきました。しかし伊作は生来の進歩的な性格と自立、自尊の強い人でありましたから、自分の理想とする教育理念をまげることをしませんでした。
 ・私が学校を経営するのは、それによって利益を得るとか、名誉を得るとかいうことよりも、自分自身の思想を大勢の人に投げかけるということが目的である。
 ・自分の心の喜び以外に自分の生命に対して価値あるものはない。
 ・だから私は自分の言うことを恐れたり、その時勢の時の政策に合わせて自分が信じていないことを学生に話することはできない。
 ・それで私は学校の生徒に話をするときには、人々はこう言っているけれども本当はこうだと言うことばかり話していた。
 ・私は人が悪いということでも、自分の良心がとがめず、自分がいいと思うことは勇敢にやって見ようという性質だからしかたがない。
 昭和18年伊作が59才の時、周りの心配もむなしく戦争の非協力者とし警察に拘引され留置されることになりました。この時学院も閉鎖となります。2年後61才の時学院を再開し、病に倒れるまで学生に「人としての生き方」を話し続けます。
 ・私の学校の方針は高い理想を平易なことばで学生に教えることである。
 ・学問的でなくても正しいことを考える力を彼らに与え、ナイーブな人間性を持たせたということは、私の新しい教育の試みが成功したものと私は信じている。
 ・精神と物質の両方の総合された生活の方法を持っていかに人間が生きるか、この世に生まれて生きている間にいかにすれば最もいい生涯を送れるかということを私は考える。
・私の人間の仕事の中で教育が最もいい仕事だと思っている。
 (引用文は伊作自伝「我に益あり」より)
 このように伊作は、新しいことにいつも引かれ全て独学で色々なことをマスターしてきました。特に学院を通じて、教育の本質や人としてのあるべき姿をいつも考え、自分の人生哲学として学生に話をしていました。
 晩年、床についてからも見舞に来る人達にいつも自分の考えを話していたと言います。
 −−‘全てのこと我に益あり’−−を
自分の指針とし行動してきた伊作の伝えたかったことを、記念館の保存とともに次の世代に伝えていければと思っております。
 本日はありがとうございました。

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