西村伊作
住宅の保存を考える際、その住宅に居住した人物の経歴、業績を明らかにしておくことは重要である。旧西村邸の場合これらのことの意義はとりわけ大きい。なぜならば、この旧宅は単に西村が居住した住宅といっただけのものではなく、彼の明治から昭和戦前期の活動と深く関わっているからである。
西村伊作 昭和9年頃 |
西村伊作は1884(明治17)年9月6日、和歌山県東牟婁郡新宮横町395(1)(現在の新宮市仲之町3丁目2−2他)で大石伊作として生まれた。父は余平、母は冬である。余平は新宮教会設立の中心人物であって伊作の名前は聖書にあるアブラハムの子イサク(Isaac)にちなんで名付けられた。成人してからの彼は一般にいうキリスト教徒とはいい難かったが、そこから大きな影響を受けている。このことについては後に詳しく述べる。
彼が生まれた新宮横町は1889年の市町村制施行により新宮町字横町となる。その場所は今日では新宮一の繁華街、仲之町の一角となっているが、当時は武家が住んだ屋敷町の面影を色濃く残していた。
彼は1927(昭和2)年、43才のとき東京に一家挙げて転居するまで、概ねこの新宮及びその周辺に住み、青年期以降の諸活動の基となった思想の多くはこの地で育まれたものである。
彼は3才のとき、母の実家である奈良顔吉野郡上桑原村(現在の下北山村上桑原)の大山杯家である西村家の養子となり西村伊作となった。そして両親と共にこの村に住んだ。養子となった経緯は西村家の後継者となるべき彼の母の弟が病死したため彼が選ばれたのであった。しかし、父余平のキリスト教信仰にかかわって周囲と様々な摩擦が起こり、約一年後新宮へ帰ることとなる。西村の諸活動はこの西村家の財力を背景にしていることはいうまでもない。
5才のとき、水害で大きな被害を受けたのを契機に新宮を離れ、愛知県の熱田へ転居した。父余平はそこで亜炭の採掘販売の事業をするようになった。少し後さらに名古屋に移った。7才のとき名古屋の英和女学校の礼拝堂で家族で礼拝中、濃尾大地震により暖炉の煙突が崩れ、そのため両親共死亡した。これらのことを題材に元新宮教会牧師で小説家となった沖野岩三郎は「煉瓦の雨」と題した作品を残している。父は洋風生活の導入、生活の改善にも非常に熱心に取り組み、そのため彼の父との生活も洋風を主体とするものであった。その父との生活は僅か7才で終ってしまったが、彼は父余平から非常に大きな影響を受けたと述べている。
その後は、祖母モンと暮らすこととなり下北山村に帰り、一転して山深い山村での洋風生活とは無縁な生活を体験した。しかし、この祖母との生活からも貴重な体験をしている。それは飾り気の無い単純生活ということである。明治維新以降、経済力が向上すると共に国民の一部には、いわゆる成金的な生活をする者が目立つように写り批判を浴びていた。西村はこのような世相を見て単純な生活を主張し多くの支持を集めた。
8才のとき西村家の家督を相続して戸主となった。
小学校は初め熱田尋常小学校へ入学するが、名古屋師範付属尋常小学校に転入、両親の死後、下北山村の桑原尋常小学校に移り卒業した。高等小学校は下北山になかったため新宮高等小学校へ入学し、そこで卒業した。
1895(明治28)年、西村11才のとき叔父大石誠之助がオレゴン州立大学で医学を修め帰国し、翌年新宮で開業する。誠之助は兄余平亡き後の西村の親代りとなるべく西村を自宅に呼び寄せ同居し、以降、西村は23才で結婚するまでの間、誠之助から米国の最新の生活改善、社会主義等の知識を得るなど、大きな影響を受けることとなる。
14才のとき大阪の梅花女学校を卒業して広島で牧師の妻となっていた叔母井出睦世宅に身を寄せ私立明道中学校に入学した。卒業後は下北山に帰り、山林資産家の後継者として自学自習の生活にはいるが、度々新宮の誠之助宅を訪問し感化を受けた。
1904(明治37)年、誠之助は生活改善啓蒙のため太平洋食堂を開店し、西村も手伝う。その頃、日露戦争に反対しビラ配りを行うなど社会主義活動を活発に行い、徴兵の召集には不応届を出すとともにシンガポールへ旅行し、日露戦後帰国する。西村は結局社会主義者となったわけではないが、父や誠之助からの影響で民主主義的な発想を身につける結果となり、大正期の華々しい彼の活動の思想的背景となった。
1906(明治39)年、22才のとき、当時米国で流行していたバンガローを新宮の日和山山頂に建築する。これが我が国における現代住宅の祖形、最初の居間を中心とした住宅であった。以後自邸の設計施工を中心に建築の経験を積む。
1907(明治40)年、津越光恵と結婚。初め1,2年間、成川や北山に住んだが、その後は1927(昭和2)年東京に転居するまで新宮に住み、家庭生活の中で様々な生活改善の実践を重ねた。彼の建築や教育の主要な活動は、住居を実際に新宮に置きながら行ったものである。それは当時の史料から明かである。
1909(明治42)年、欧米を旅行する。3月29日横浜出航、イタリア、スイス、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカなどを約4ヶ月間余で巡っている。彼の表面的な目的はアメリカで病気の弟を連れ戻すことであったが、彼の真の目的はアメリカを視察することであって、欧州へ行ったのは当時直接アメリカヘの渡航が困難であったため欧州を経由したのであった。
帰国後、伊佐田の現在の記念館とはぼ同じ位置に、日和山よりバンガローを移築二階建てに増築する。1910(明治43)年、大逆事件に関連したとして叔父、大石誠之助が検挙され、この住宅も家宅捜索を受ける。
1913(大正2)年にはこの家に、後に二科会の創立メンバーとなる画家、石井柏亭を招き共に創作活動を行う。西村はこの頃、絵画の制作に力を注ぎ、翌年11月には東京野日比谷美術館において個展を開いている。そのほか1915(大正4)年の二科会には入選を果たした。
1914(大正3)年末、三番日の自宅(現在の西村記念館)が竣工する。このことについては後に詳しく述べるが、この住宅の設計施工の経験が以降の建築活動の基礎になった。また、この住宅で大勢の子供らを育て教育する家庭生活の中で、それまでの自分の生活改善の思想を実践しさらに発展させた。この住宅は彼にとっては非常に重要な記念すベきところとなった。
この住宅には佐藤春夫や新宮教会牧師で後に小説家となった沖野岩三郎、歌人の与謝野晶子、陶芸家で民芸運動の指導者の一人であった宮本憲吉、彫刻家の保田龍門、民衆芸術運動の論客で雑誌「科学と文芸」を共同で発刊した加藤一夫、童話作家の巌谷小波、そのほかこの土地の知識人など、多彩な人々が集まるサロンともなった。
1916(大正5)年には加藤一夫と共同で雑誌「科学と文芸」を発刊する。この紙上において西村は「バンガロー」と題する小論を発表するが、筆者はこれがわが国における最初の居間を中心とした住宅、バンガローの主張であったとみている。
1919(大正8)年、西村のそれまでの住宅建築の経験を生かして最初の著者「楽しき住家」を出版する。この書は大きな反響を呼び、彼が広く世間で知られる大きな契機となった。またこの書の住宅史上の意義は非常に大きなものがあり、このことについては後の「住宅史上の業績」で辞しく述べる。
1920(大正9)年、与謝野夫妻らと信州・星野温泉(軽井沢)に遊び、その際後に文化学院となる学校についで相談を持ちかけ夫妻から共感を得る。この年の12月、大阪毎日新聞と東京日々新聞に西村の論文「文化生活と住宅」が連載され、非常に大きな反響を得る。先の「楽しき住家」やこの論文が好評で多くの人々から設計相談を受け、そのため建築事務所を開設することになる。
1921(大正10)年4月、東京神田駿河台に文化学院開校。この年、現在の神戸市東灘区に西村建築事務所を開設。また少し遅れて東京にも事務所を設け、以後約10年間積極的な建築活動を行う。9月「田園小住家」を出版。
1922(大正11)年、「生活を芸術として」「装飾の遠慮」出版。
1923(大正12)年、「明星の家」「我が子の教育」出版。
1926(昭和2)年、新宮を離れ東京(現在の杉並区阿佐ヶ谷)へ一家転住する.以後、疎開中を除き東京に住まう。「我か子の学校」出版。
1933(昭和8)年、五反田に住居を新築移転。
1943(昭和18)年、文化学院、閉鎖命令を受け軍施設として使用される。
1946(昭和21)年、文化学院再開。
1963(昭和38)年、逝去。享年77才。
以上西村の略歴を述べた。彼は昭和戦後になって広く実現した住宅や教育のあり方を大正期の早期から主張し、そのことを実践者した先駆者であったということである。したがって、この略歴も大正期までを比較的辞しく述べた。
旧西村伊作邸(西村記念館)近代文化遺産詳細調査報告書
平成9年3月31日発行
著者 田中修司